今回は、「as:9-nine- ARTEISIA」というタイトルについて考察したいと思います。
これより先は、新章含む9-nine-本編及び、「as:9-nine- ARTEISIA」のネタバレを含みます。ご注意ください。
まず着目したいのは、冒頭につけられた「as」です。asは多くの意味を持つ単語ですが、私は「〜のように」という訳がふさわしいのではないかと考えています。
これについて理由を述べる前に、まずは「アルティエイシア」について触れておきます。作中において、「仕儀の反駁」に対して振られていたルビです。文脈を考えれば、否定のアーティファクトの名前であると考えられます。
つまり、asを「〜のように」という訳で解釈した場合、「as:9-nine- ARTEISIA」は、「ナインのように理を否定する」と読み替えることが可能になります。
ナインの持っている「オーバーロード」は、枝の剪定という形で望まぬ運命の先を無かった事にすることができます。これはすなわち、「運命の否定」とも考えられます。
もっとも否定のアーティファクトは、「オーバーロード」のように過去や未来に至るまでを観測し、自由自在に運命を変えられる訳ではありません。よって、「否定のアーティファクト」=「オーバーロードの下位互換」という解釈が成り立つはずです。
しかしだからこそ、タイトルを読み替えた時、「ナインのように理を否定する」という意味が自然に受け入れられるのではないでしょうか。
よって私は、タイトル冒頭につけられたasは「〜のように」と訳すのが自然だと考えました。
次に、「ARTEISIA」の部分についてです。
PV等でタイトルが読み上げられる時、音としては「アルティエイシア」と読まれています。しかし、字面を見れば「アルテイシア」と読めるはずです。「アルティエイシア」と読ませたいのであれば、「ARTIEISIA」もしくは「ARTYEISIA」と表記するのが妥当でしょう。
ここでタイトルロゴに注目してみると、「ARTEISIA」の"T"の部分に違和感を覚えます。

結論から言うと、私はこれが"T"に"I"を重ねていることを表現していると考えました。
すなわち、本来の表記では「ARTIEISIA」と綴って「アルティエイシア」と読ませるということです。
では、なぜこのように"I"が隠されているのでしょうか?
"I"は何かの隠喩であり、これを隠すことが作品にとって意味のあることだと考えられます。
音での遊び、つまり言葉遊びの類ですが、"I"=「私」or「愛」と捉えることも可能ではないでしょうか。
そもそも、作中で鍵となる人物の名はアルテシア。表記を変えれば「ARTESIA」です。つまりこれは、アルテシアを土台とした言葉遊びであり、アルテシアに二つの"I"を足すことで、否定のアーティファクト=「アルティエイシア」になると解釈できます。
これは作中での否定のアーティファクトの成り立ちを考えれば自然とも言えます。
否定のアーティファクトは、アルテシアが宿した魔術と自身の魂がアーティファクトに変容したものです。アーティファクトである以上、ユーザーがいなければ否定の能力も使えません。
つまり、アルテシア単体では未完成で、ユーザーとなる誰かとそれを発動するための魂が揃って初めて、否定のアーティファクトとして能力を使用できるからです。
さて、"I"を「私」とした場合、アルテシアに足される二つの"I"は、二人の「私」。つまり、二人の人物と考えられます。
この二人の人物に当てはまる可能性として、私は三人を候補に挙げたいと思います。
それは、テオドール、結那、そしてプレイヤー、つまりナインです。
なぜこの三人が候補になっているかというと、否定のアーティファクト覚醒の場面及び、アズナイン最終局面で結那の死を否定する場面を思い返していただければ理解しやすいと思います。
結那の死を否定する場面、否定のアーティファクトの起動には、テオドールの残存魔力と魂、そしてナインが繋いだアーティファクトに宿る結那の魂が必要でした。
「ARTIEISIA(=否定のアーティファクト)」の起動には、「I(=テオドール)」、そして「I(=ナイン)」が繋いだ「ARTESIA(=アルテシア)」が必要だったと読み取る訳です。
また、否定のアーティファクトが覚醒する場面。こちらは、結那がテオドールのためにクリスネイアを救いたいと強く願った結果の覚醒です。
つまり、「I(=結那)」と「ARTESIA(=アルテシア)」の二人がテオドールに向ける「I(=愛)」によって、「ARTIEISIA(=否定のアーティファクト)」の覚醒が起こったと読み取ることができるのではないでしょうか。
更に、"I"を「愛」と解釈したとします。すると前述した「"T"に"I"を重ねている」という文脈も、「"T(=テオドール)"に"I(=愛)"を重ねている」と読み替えることもできます。
魂だけになってもテオドールを想い続けたアルテシアの気持ちを表現している文脈として、とても最適だと捉えられると思います。
それに加えて、アルテシアと結那が治癒のアーティファクトとして能力を使用した場面についても、「愛」が絡んでいます。二人の能力初使用場面を思い返すと、どちらもテオドールを死なせないために、己の命を削って能力を使っていました。
作中では、「好きになるってことは、自分よりも相手の方が大事なこと」という表現があります。
これをふまえると、二人の気持ちの源は、テオドールに向けた「愛」と呼べるはずです。
これは、最終局面でテオドールが結那の死を否定する場面についても同じことが言えるでしょう。
つまり、「I(=愛)」を原動力として理の否定を行ったと解釈するのです。
以上が、タイトルについて私が抱いている考えとなります。
言葉遊びを持ち出した以上、こじつけと言われても反論の余地はありません。しかし、タイトルについてはずっと違和感を抱き続けていたので、何か理由を見つけたいという気持ちがあったのも事実です。
なので、私の考察に対する指摘や新たな考えがあれば、教えていただきたいです。
それでは。















